奪われた主人公であることについて

主人公でありたい。

 

僕はずっとそう思って生きてきた。もちろん、全ての人がその人の人生においての主人公であることに疑いを挟む余地はなく、それをベースに敷いた上での「主人公性」のある生き方を僕は求めて生きてきた、ように思う。

 

僕は小さい頃から漫画が大好きでかれこれ20年近く一気通貫した趣味として持ち続けている。そこに現れるたくさんのキャラクターはそれぞれに主人公性を持ってキラキラと輝いていて、僕は20代後半になってもそんな主人公たちに憧れている。

 

そんなキャラクターたちをキラキラとさせているのは大きく分けて「背景」と「イレギュラー」という二つの事柄だと思っている。味のある悪役には悪である背景があり、魅力的な主人公は思わぬイレギュラーによってその魅力をより輝かせる舞台へと引き摺り出される。

つまり、「背景」と「イレギュラー」。この二つが僕が主人公であるという自覚を維持したまま生活を楽しく送るために必要なものなのだと思っていた。

 

そのためにいろいろなことをしてきたと思う。高校に入って、これまでの自分を一度捨てて所謂「高校デビュー」をしたとき、柔道部を辞めてギター部に入ったとき、その時の友達と一緒に大学でフォークソング同好会の門戸を叩いたとき、サークルの同期と始めたいろいろな楽しいこと、大学の専攻の枠を飛び出てした就活、東京への移住、そして今に至るまで僕は様々な活動で僕自身の背景を(少なくとも僕から見て)魅力的なものにできるように努め、そのために邁進してきた。そんな日々はとても楽しく、そうして出会ったたくさんの人たちや機会の中から多くのイレギュラーが生まれ、僕の毎日に華を添えていた。

 

僕は常に今が一番楽しいのだ、という自覚を持って生きてこられていると思っていて、そう思えているのにはこうして積み上げてきた背景が今の生活を楽しくしてくれているからである、という自負もあった。

 

だが、ここ一年弱で圧倒的に奪われてしまったものがあるのもまた事実で。それが「イレギュラー」なのだと僕は思っている。イレギュラーとは、何か行動を起こした時に初めて生まれるもの。書を捨てて街に出よというわけではないが、街を歩き、電車に乗り、人に出会うことで起こる歓迎すべきイレギュラーが、日々の重要な刺激として僕を動かしていた。

コロナウイルスは僕からほとんど外出の機会を奪ってしまった。人によっては家から出なくて済むことを肯定的に捉える人もいて、東京の人の多さを思うとそう考える人がいるのも理解できる。それでも、僕にとっては週末のライブなんかの楽しみもそうだし、なによりも毎日の出勤というイレギュラーの獲得を奪われたことが、生活に大きな影を落としていることを実感している。

 

朝会社に行くために起きて、電車に乗り人と人の間で揺れ、駅から会社まで少し歩いて、会社に着いたら人に挨拶をして、仕事に疲れたら会社の中を散歩して同期と話したり、仕事で気になることがあればすぐ誰かに話を聞いたり、そして帰る時間になればたまに誘われて酒を飲む。たったこれだけの生活に如何に愛すべきイレギュラーが含まれていたか。それを思うだけで、今、自宅のデスクに座ってパソコンと向き合うだけの日々を続けている僕はどうしようもなく悲しくなってしまう。

 

イレギュラーを奪われた僕の生活はなんだかとても平坦で、それだけに自分について暗い考えを巡らせる時間も増えてしまったように思う。最近はそこから逃れるようになるべく週末は予定を入れて人と会うようにすることでバランスを取ろうとしているのだけど、それは自分の人生に潤いを取り戻すというよりは、無くなった潤いをかき集める程度の作業に過ぎない。

根本的に「出会う」機会が足りていない今の自分は、自分の根底にあった「主人公性」への希求を緩やかに失いつつある。それが殊更に恐ろしく思える。

 

目に見えないウイルス一つで人の生き方は大きく変わってしまった。イレギュラー無き人生の空白期間は、ゆくゆくの人生から「背景」を奪い、それが予想される今、僕はとても日々に辛さを感じてしまう。「さえなければ」などというのは念じるだけ無駄とは知っていても、未だに今年フジロックに行けていたら、サークルのOB会があれば、日々のライブを見られていれば、そして何よりも、毎日この家から抜け出せていればと考えてしまう。

 

この日々の中での主人公のあり方を僕は考えなければいけないのだけど、これまで読んできた漫画たちは部屋から出られない主人公の輝き方を残念ながら教えてくれない。これについては僕自身で考えて解を出さねばならない、とても難しい問題だ。