【近況報告】休職から復職、現在に至るまで

前回休職を決めた直後くらいに近況をこのブログにまとめて、気づけば4ヶ月くらい経ったわけですが。

とりあえず直近としてはなんとか復活(部分的にそう)し同じ会社で引き続き働いています。

日常って意識しないと水が低きに流れるように何もしない方向に進んでしまい、記憶を記録にしないと何も残らないのでブログ更新しよ、と思いました。

休職してから現在に至るまでをいくつかのフェーズに分類して書いていこうと思います。

 

ほぼ寝てた期

休職直後から2月末までの1ヶ月半ほどの期間を指します。

 

社会が怖くなってしまって仕事を休み、病院にかかった僕には順当にうつ病の診断が下されたわけですが、そこで言われたことは「今はとりあえず何も考えず寝ること」でした。この時期は自分を精神的に圧迫していた仕事から逃れられたという開放感が強く、ある意味で何もしない休みの期間を満喫できていた期間と言えるかもしれません。朝起きたらリビングに行き、ソファーに横になりYouTubeを見て、昼飯食って、またソファーに横になりYouTubeを見て夕飯食って風呂入って寝る。基本はこれの繰り返しでした。

 

この時期は回復期とも呼べるかなと思っていて、ただゆるやかに猫のような生活を送っていました。それゆえにあまり記憶のない期間です。ただぼんやりと、ソファーから眺める日が差す窓辺の記憶だけが橙色に残っている、そんな時期です。

 

リハビリ期

3月から復職する4月半ばまでを指します。2月末で傷病休暇と有給をほぼ使い切った僕は、しかしそれでもまだ休むべきとの診断を医者から受けて、「休職」のフェーズに突入しました。

 

休職って、ただ仕事を休んで無給(厳密には手当金が出るので無給ではない)になるだけかと思いきや、ものすごく煩雑な休職のための手続きがあって、それらがものすごく僕の精神安定に悪影響を及ぼしました。休職をきっかけに社会から零落してしまうのではないかという不安が妙な具体性を持って降り注ぎ、強い焦燥感に苦しむ日々だったと記憶しています。

 

僕の会社には復職後の時短勤務等のシステムが用意されておらず、休職期間中に自力でリハビリを行い復職可能であることを示す必要がありました。これは焦燥感に苛まされる僕にルーチンという名の逃げ場所を与えてくれ、リハビリ自体は面倒だったものの、疑似的に社会活動を行なっている感覚は僕に幾分かの「帰属する安心感」を与えてくれました。

 

リハビリは2週間必要で、それを3月の下旬に無事終え、産業医からも復職のGOサインが出、いざ4月から復職と意気込んだものの、実際に復職できたのは4月中旬。復職のためにはまた煩雑な事務手続きやその一つ一つの間の待ち時間が発生し、その結果生まれた無為な数週間。この無為な数週間は僕に再び焦燥感をもたらし、つらい時期でした。

 

復職後から現在

4月中旬から今現在です。

復職に際して、僕には新しい案件が割り振られました。その案件には僕が以前客先常駐をしていたときに一緒に働いていた人たちがいて、他にも一緒に仕事をやってみたいと思っていた人もいて、人に恵まれている安心感がある場所でした。とりあえず復職して2-3週間は社会に無事帰って来れたことに対する安心感を強く感じ、そこから生まれた自己肯定感で波のあるメンタルを押さえ込んでいたように思います。

 

しかし、一時的な安心感に慣れてきた頃また、不安が襲ってくるようになりました。人間は一度精神的に強めのつまづきをすると、その感覚を身体が覚えてしまうようで、精神的なストレスに極端に弱くなるように思います。以前はやってみますの一言で引き受けられた仕事が不安で受け取れない、なんとか受け取っても漠然とした不安に押しつぶされそうになる。「うつ病以前」の自分とのギャップに苦しむことが多いです。あと、シンプルに頭の回転が悪くなりました。仕事の話が全然頭に入らなくて、説明を受けても理解出来ず黙り込んでしまうことも多くなり、明らかに劣化している自分の能力にとても悔しい思いです。こうして今も文章を書いていますが、ずっと靄がかかった思考で筆を進めている感覚です。

 

今はただ、そんな自分を受け止めて、以前より歩みが遅くても、一歩ずつ進めている実感を噛み締めることで社会にしがみつくしかない、そんな時期だと思います。社会への帰属は自分の精神の安定性の一番ベースの部分を底上げしてくれる重要な要素です。休職して貯金を切り崩して生活する日々は本当に落ち込むものでした。社会への帰属の報酬として生活のための賃金を受け取る、このサイクルに自分を組み込むことが自分の精神的安全を保証する重要な鍵となると思っています。だからこそ、またそこから零れ落ちることが本当に怖い。そうならないように致命傷を回避して生きる、そうするしかないと思っています。

 

今回仕事を休むきっかけとなった案件の上司に会う機会がありました。「ある程度無茶振りをしている自覚はあったけど、なんとかやれると思って任せていた」と伝えられました。それを聞いた時ただただ虚しさを感じました。もっと上手く周囲に頼っていれば、もっと仕事に対して気楽に向き合えていれば、こうなる前に自分のしんどさを説明できていれば、いろいろ思うことはありますが、過去を問うのは是非のないことです。ただ、結果として残った「うつ病」という傷にはやり場のない憤りがあります。

 

僕がずっと信じて生きてきた「約束された人生の成功」は既に一度梯子を外された感覚があります。今僕に出来ることは地に這いつくばってなんとか生きることです。自己実現のために邁進できるほど、まだ僕の心の凹みは回復していないように思います。今はただ粛々と、「できない自分」と向き合い生きていくことだなと感じます。

以前に熱中してたこと、好きだったこと、ほとんどその熱意を失ってしまいました。それを取り戻すべく、残ってる手札を探し回る日々です。

 

P.S.

先週友人に連れて行ってもらって久しぶりに山に登ったんですが、とても気持ちが良かったです。多分、山に登っていればうつ病って治るんだろうなって思いました。

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彼のこと

昨日、Twitterを通じて彼の訃報を受け取った。

彼は僕の所属していた音楽サークルの後輩であり、またバンドメンバーでもある良き友人だった(であれたと少なくとも僕は思っている)。

弔意をどう示すことが正解なのかわからないまま、Twitterを眺め、僕と同じようにして彼の死を知った友人たちの言葉を眺めた。何度も何度もスクロールして、友人たちの言葉が表示されるのを待った。

 

人が死んでしまうと、その人の全ての物語が止まってしまう。当たり前ではあるこのことが僕にはとても、底なしに、恐ろしく、虚しく、また悲しく思える。デジタルな現代社会の中で僕らはその時の直前まで緩やかにつながっていたはずで、それゆえにその緩やかなつながりがいとも容易く修復不可能なものになってしまうことにまだ実感が湧かない。

 

更新されなくなった物語はいつしか僕らにとって過去となり、それが決して「現在」へと復帰することはない。さらに恐ろしいことには、少しずつ忘れていってしまう。

そう考えた時、僕は今の僕が思い出せる彼のことをここに言葉として残そうと思った。

せめて文字にすることで、忘れたくないことを書き留めておきたいと思った。

そして、こうして誰でも見える場所に僕の追憶を置いておくことで、同じように彼の喪失を受けた人が、彼のことを思う一端となれば良いと思った。

 

僕が思い出せる彼のことは限られているけど、この文章を通じて友人たちがそれぞれに持つ彼の記憶の導きとなれたら幸いに思う。

 

 

 

彼とは僕が大学2年生の時に出会った。僕のサークルの同期である薫人は、その高校生の頃からの多岐にわたる友人関係で、多くの友人となる人たちと出会うきっかけを作ってくれた。彼もそんなうちの1人で、ある日僕らのサークルにやってきた。

インカレを称していたもののほとんどが名大生で構成されていたうちのサークルに、当時からフリーターだった彼が入ってきたのは少しの驚きがあって、最初は彼が馴染めるのか少し心配をした。しかしそれは杞憂で、彼はその持ち前のマイペースさであっという間にサークルに馴染み、巨大なエフェクターボードとひなっちを思わせるベースプレイでその立ち位置を確立し、僕らのサークルのいちベーシストとしてすっぽりと収まった。

 

彼は当時からMicroTuneというバンドのベーシストだった。同時期に僕は3cm.rhythmというバンドをやっていて、この2バンドに加えてグッドバイモカの3バンドで当時よく出ていたライブハウスの若手として、シーンの末端でガンバっていた。MicroTuneと僕らが共演することはあまりなかったけど(とはいえ彼らのレコ発企画に呼んでくれたこともあった)、グッドバイモカとMicroTuneの共演は多かったり、また僕らとグッドバイモカとの共演も多く、この3バンドは友達の友達くらいの距離感でお互いに仲良くしていたし、ライバルでもあったと思う。

 

また、イカリヤマナツバンドというバンドもあって、彼はそこでもベースを弾いていた。このバンドは僕から見ると前述の薫人を介した友人の友人たちの集まりのようなバンドで、現:猫を堕ろすのボーカルであるなっちゃんを中心に、現:Suspended 4thのサワダたちが脇を固めるバンドだった。

 

彼は断らない性格だったのか、とりあえずやってみよう精神だったのか分からないけどとにかくいつもいくつものバンドを抱えていて、まさに音楽の中にあった人間だったと思う。

 

彼がサークルに入部してから遅れること約一年、サカヱというやつがまた学外から僕らのサークルに入ってきて、彼らは蒼い芝生というバンドを結成した。このバンドは特にエネルギッシュな活動をしていて、名古屋のオルタナ界隈で見る見るうちに知名度を獲得していった。その才気には同じバンドマンとしての羨望やわずかな嫉妬を感じながらも、僕は彼らのライブによくいる1人の観客だった。サカヱの音楽には揺るがないオリジナリティがあったし、そこでベースを振るう彼もいつになくソリッドでイケていた。

 

もちろん、サークルの一員としても彼は忙しく活動していた。まめにライブがあった僕らのサークルでもほぼ毎ライブ何かしらのコピーバンドをやっていたし、飲み会にもよく来ていた。ヘラヘラとよく笑う彼とはたくさんのくだらない話をしたように思う。

 

さらに一年ほど経った。その頃僕はポストメタルという音楽に傾倒していて、当時よく3cm.rhythmを企画に呼んでくれていたイベンター、竹山さんとのポストメタル談話の中で出た「山の稜線にそびえ立つ鉄塔はポストメタルの象徴的な風景である」という会話にインスパイアされtettohというバンドを組んだ。そこに彼をベースとして誘った。

彼のエフェクティブでエッジーなベースプレイは僕のイメージの中のポストメタルによくあっているように思えた。ほぼ二つ返事で彼はtettohに入り、のちにもう1人ベースが入って4人体制になった頃にはそのエフェクティブなベースプレイでベースとギターの中間地点を担う立ち位置を確立した。

 

その頃には、彼はサポートでの参加を含め多数のバンドに籍を置いたり足跡を残したりするようになっていて、半ば冗談で「お前の組んでいるバンドだけで企画が打てる」というような話をよくしていた。名古屋には同じようなスタイルで多くのバンドに参加していた名ベーシストがいて、その人の参加バンドだけで固めた、FUNAHASHI IS DEADという企画をやっていた。

それにインスパイアされついに彼はKOBAYASHI IS DEADを敢行。蒼い芝生、Suspended 4th、イカリヤマナツバンド、MicroTune、tettohで彼は1夜5バンド出演を果たし、白装束でベースを振るった。その日は僕の知る限り一番新栄DAYTRIVEがパンパンになった日だった。100人入ったという話があったような。この日は僕の記憶に残る「楽しい音楽があった日」の一つに数えられるとても楽しい日だった。

 

彼には多くの友人がいて、音楽とは直接関係のないところでも人の輪が生まれ、僕も彼を通じてそこに加わり酒を飲んだり、飲み明かした朝に味噌汁を作ったりした。僕が東京に引っ越してからもこのメンバーは定期的に集まって遊んでいて、東京から羨ましく思っていた。

 

ここから更に1年ほど。彼はサークル内でqulague.を結成。彼なりの遍歴を経た結果のような、マイペースながらも着実に自分たちのやりたいことを形にする、そんなバンドだと僕は思った。qulague.は幾度も自主企画を打ち、その企画はいつも「自分たちの好き」の中にあって、県外にまたがる音楽のつながりを作っていった。

 

もうその頃には僕はサークルを卒業し東京に居を移していた。彼もサークルを卒業した。彼は変わらず音楽活動にエネルギッシュで、qulague.に並行して、Sedwigでもベースを弾き始めた。Sedwigは僕が同期のしじゅんとやっているcllctv.のイベントに出てくれたバンドが母体になってるバンドだったりして、違うコミュニティにいる友達と友達が友達になったような不思議な温かさを感じた。

もう彼は名古屋のシーンでベーシストとしての立ち位置を確立していた。

コバヤシ、バヤシコ、コバさん。それぞれが思い思いに彼の名前を呼んだ。

 

そこからも、名古屋でtettohのライブがあった日は彼の家に泊まったし、つい半年ほど前、2020年の10月に仕事の休みを取って名古屋に遊びに行った時も彼と酒を飲んだ。定期的になんとなく会って話したい、そんな関係だったと思う。彼とは音楽の話も好きなアニメの話も好きなVtuberの話もしたし、趣味が合う面も多々あった。

 

また次はいつ飲もうか。緩やかにそれが続いていくと思っていた。

 

人の道のりが終わることは、なんというか、とても空白だ。健やかに生きていかねばと思うし、みんな健やかであって欲しいと思う。

 

小林へ

また今度が果たされないのは寂しいよ。

【近況報告】仕事を休んでいます

※今回は自分のそれなりにディープな心の揺れを文字に起こしたので、人によっては余波を食らってしまうかもしれません。なので他人のメンタル話に人生波打たされたくねぇ!って人は読まない方がいいかも。

 

どうも、このブログを読んでくれている幾人かの方々こんばんは。

 

前回、自分の中の不安が大きくなってきているけど、なんとか頑張ろうと思うよという趣旨のブログを書きました。

そんな記事を書いた翌日のことでした。

 

仕事に向かい合うことに対してとても大きな不安を抱いてしまい、夜遅くまで上司とどうクライアントと向き合っていくかの相談をしました。現状自分が感じている負担がかなり大きいこと、そこに助けが欲しいことをなんとか言葉を捻り出して伝え、協力を仰ぐことに成功しました。助力こそ仰げたものの根本的な不安は一切拭えず、実はもうその時には堪えきれずボロボロ泣いていました。

こうなる前週の木曜にも同じように泣いてしまうことがありましたが、この日はそれよりももっと深い不安が僕を襲い、上司との通話を切った21時から30分、ずっと声をあげ泣き続けました。これほど泣いたことはもしかしたら人生初めてだったかもしれません。

そして、今思うとぶち当たった状況に対しての解決策が極端すぎて非常に馬鹿げていると思うんですが、初めて「今死んでもいい」と思ってしまいました。包丁を手首に当てるシーン、とりあえず処方された薬を大量に飲んでみるシーン、そう言ったものが脳裏を駆け巡りました。

たかが仕事に何をそんな大それた、という話ももちろんあると思います。世の中大変な仕事もそれ以外の大変なことも山ほどあるし、毎日たくさんの人が壁にぶつかって戦っていると思います。でも、そんな中でも僕だけは一旦楽になりたいと思ってしまいました。

 

さいわい僕は、これはまずい、と冷静に知覚することができました。

 

そして、いつぶりかわからない電話を両親に繋ぎました。妻はまだ仕事だったし、今この不安を妻にぶつけても多分戸惑わせてしまうという気持ちがあったし、人生的にもずっと先輩である親の第三者目線での意見が欲しくなったんです。そこで現状を洗いざらい話しました。半年前から漠然とした不安を感じ薬を飲んでいる、今は全て不安で仕方がない、明日が来ることが怖い、パソコンを触ろうとすると手が震える、未来にも漠然とした不安しかない、そんなようなことを1時間ほど話したでしょうか。母親も父親もじっくりと自分の話を聞いてくれました。そして、それぞれ自分なりの僕の現状への見解を丁寧に話してくれた上で、父親はキッパリと「明日から仕事を休め」と言ってくれました。

 

僕は元来人に相談をするということが苦手だし好きではないです。それはなぜかというと、相談するという行為には期待する回答が必ずあって、それが欲しいために行う「相談」というコミュニケーションはとても浅ましいものに感じてしまうからです。しかし、この日ばかりは僕は欲していました。「仕事を休め」という回答を。でも僕一人では怖くてその回答を出す踏ん切りがつきませんでした。なので、この言葉を父親が僕に投げかけてくれたことを本当にありがたく思います。

 

話が変わりますが、僕は生まれてこのかた今まで一度も挫折せずに生きてきた、という自負がありました。僕はとても環境に恵まれているという自信があって、そんな環境を自分なりに活用させてもらいながら挫折を避けてきた、いわばうまいこと生きてこれた人間だと思っていました。なんなら死ぬまでそうだと思っていました。

しかし、今回僕が向かい合った大きな不安は、自分にとって生まれて初めてぶち当たった逃がれることのできない壁となってしまいました。

そこに対して取れる手段はもはや逃げること、一旦身を引くこと以外何もなかったのかなと思います。

 

父親の言葉に後押しを受け、22時半、深夜であることを詫びた上で再度上司に連絡を取り、自分の今の状態を一から説明した上で、「明日から仕事を休みたい」と伝えました。僕一人いなくなっても仕事は回ると思いますが、僕がいなくなった補填は誰かがしなければいけません。そういう現状があっても、上司も何も言わず「分かった、とりあえず休め」と言ってくれました。

 

それから2週間ほど経ちました。僕はまだ仕事には復帰していません。

休むことを決めた翌々日の水曜日に、いつも行っている心療内科に駆け込みました。そしてそこで、自分の中での大きな不安が抱えきれなくなり、ついに仕事を休んでしまったという旨を話しました。

出た診断書には「うつ病 二月末日までの自宅療養が必要」と書かれていました。これが、初めて僕の「不安」に名前がついた瞬間です。

病院では、とりあえず食べて寝ること、それ以外は何も考えなくていいし、しなくていいと言われました。

なので今の僕は夜寝て昼起きて食事し寝て、夜食事して寝る生活です。

まるで猫のようだなと思います。

一応二月末までは休むつもりですが、まだどのように仕事に復帰するかとかは全く考えられていません。会社の産業医との面談も実は明日です。

流石にあれだけ大きな不安にぶち当たったのはあの日だけでした。以降は薬を飲んでる分には不安を覚えることもなく穏やかに日々を送っています。ただ裏を返せば薬を飲まないと忍び寄ってくる不安が、まだ自分が本調子でないと認識させられている感覚にもなります。

今後どうなるかわからないけど、一旦現状をまとめておこうと思ってブログ書きました。

タイトルで言いたいことを書くか、読んだ人だけに現状が伝わるようにするか迷ったのですが、まぁいいかと思いタイトルに現状をソフトに詰め込みました。今北産業

 

多分漠然とした不安を大小抱えている人はたくさんいると思います。その不安って実は時限爆弾だったりするかもしれないので、きちんと向き合って付き合い方を考えた方が良いと思うってことと、いざ爆発した時に、あー、そういえば最近あいつも不安爆発して仕事休んでたな、なら自分もそうするか、と自分を労わるきっかけにこのブログがなれば良いなと思いダラダラ書いてみました。

 

母親と電話をした時、そういえば高校生の頃柔道部辞めたいって言った時もこんな感じだったねと言われました。(僕は部活で組み手中に理由もわからず涙が止まらなくなり、その勢いで柔道部を辞めたことがあります、なんか今回のと似てるな?)

自分はそんなに酷かった記憶のないことなので、今回の不安爆発休暇取得ムーブも、何年かすればそんなこともあったな程度になってくれたらいいなと思っています。多分なるんだろうな。

 

27で結婚もしたのに不安でボロボロ泣いちゃったし、なかなか強い人間になれねーなーって思ったりした最近です。

みんな、頑張って生きていこう。

 

20210117_近況

最近はお笑い関係のテレビ番組を見ることが多くて、僕も奥さんも空気階段のファンなんですが、今日「笑った顔がもぐらと似ている」と言われました。コメントは差し控えたいと思います。

 

昨日これを読みました。

https://twicomi.com/manga/e3_noguchi/913693963118190594

 

鬱病と長く向き合い続けた主人公の寛解までのストーリーで、読んでいてとても心の整理ができたものでした。これに出てくる寛解のきっかけとなる某先生が結構怪しい商売をしているとか、案の定付随したきな臭い情報が出てきたんですが、この作品自体の持っている説明力自体はとても素晴らしいものがあったと思います。

 

心の整理と書きましたが、先週くらいからもう僕の心は不安でぐちゃぐちゃになってしまっていて。

きっかけは仕事の難しさと責任が急に跳ね上がって、見えている壁のあまりの高さに眩暈がして感情が制御できなくなってしまったことでした。その実態が明らかになった日は本当に絶望的な気持ちになって、上司と通話で今後の展開を整理しながら、不安で流れ出てくる涙を止める術がなくただたださめざめと泣いてしまったくらいです。

この不安は今までに感じたことのあるものよりもずっと急でとても大きなもので、僕の守るべきの週末にも影を落とし、出かけようにも家にいようにも翌週以降の仕事のことが心配で心配で、ずっと不安で泣きそうな気持ちだったんです。

 

そんな土曜日の夜に冒頭の漫画を読みました。読み進める中で次第に自分の中の不安が整理され、それが何かしら第三者的視点で相対化して説明できるもののように感じることができました。そう感じて僕は、ここ半年で一番たくさんくらい、奥さんと今抱えている不安の話をしました。彼女は気づいていなかったようなのですが、僕はここ半年ほど漠然と感じ続ける不安を言語化できず、それを発話できず家の中であまり会話できてなかったんです。

 

気づいたことは不安とは、不安によって芋づる式に、雪だるま式に膨れ上がっていくものだということでした。どこかで生まれて僕の心の奥底に居座る不安の種は、気づけば色々な要素の不安を巻き込み肥大化し、ついに原因を突き止めることのできない、「かたちのない不安」になっていたんです。そして、かたちがないだけに対処法の見つからない不安が僕を押しつぶそうとしていた。そういう現状に気づくことができました。

不安という感情はとても不安定なもので、すぐにひっついて膨らめるための欠片を探しているように思います。それを抑えるためには結局自分で一つ一つ、不安の種や欠片と対話していくしかないんだと気付かされました。

深く息を吸い、吐きながら今の自分の置かれている状況を整理し、それをこなした後の「強くなった自分」を想像すること。これが出来るかどうかが大きな転換点になるのだと悟りました。

不安と相対するまでの僕は、誰よりも不幸で、誰よりも苦境に立たされていると思ってました。でも本当はそんなことはないんです。それは、自分よりも辛い人がいるとか、誰しもが辛いとかそういう感情の評価ではなく、単純に自分に降り注いでいる苦境も歯を食いしばって向き合うことで少しずつ、そこから生まれる不安の種を小さく出来るということなのだと思いました。

慎重に自分の状況を分析すれば、自分は全てにおいて孤独に戦っているわけではないことに気付かされました。僕は仕事においてクライアントと相対するある領域における最高責任者になってしまい、その重圧に一度押しつぶされてしまったんですが、それも本当に一人で戦わなければいけないわけではないんです。きちんとチームがあって、確かに自分は矢面に立っているけど、それを後ろから見てくれている人がいる。そんな人を十二分に頼って自分の不安の種を最小化しながら、でも当たるべきところには歯を食いしばって当たる、そうして乗り越えていくしかないのだなというある種の悟りというか理解を得たことで、押しつぶされそうだった不安は、なんとなく自分の心の奥底に横たわる程度のものに変わりました。

 

まだ日々が不安なことには変わりないです。なぜか日曜の夜に来たクライアントからのメールはまだ怖くて開けていないし、正直明日が来るのは嫌です。

でも寝て起きたら明日は来るし、時間は一方向に流れるので必ず向き合うべきものは終わるんです。そう思って今は、向き合うべきものと戦い終えた後の自分がどう変われるか、これを想像しながら目の前のことを一つずつこなしていこう、そういう気持ちでいます。

不安の種は世の中あらゆるところにあるけど、それを一度落ち着いて視点を変えて向き合って実態を掴むこと、これを続けていくしかないんですね。本当に人生って難しいなと思いました。

 

20201221_近況

飲む薬が増えた。

理由はそれほど複雑な話でもなく、今まで飲んでいた錠剤だけじゃどうも精神のバランスが取れない日が続いたためだった。あの嫌な感覚はなかなか言葉で表すのが難しいが、真綿で首を絞められるようという表現を生んだ過去の文筆家は偉大だなと思う。視界の隅がじわじわと暗転していくような、自分の安定した場所が少しずつ削り取られていくような感覚は、底なしの沼が少しずつ近づいているようなもので、胸が引き攣る思いがした。

そんなわけで理由はわからないが悲しく、将来に対する漠然とした絶望が度々生活の中で起こったため、いつもの病院で相談をしたら飲む薬が増えた。

 

今まで飲んでいた薬はいわゆる鬱っぽさの改善に効果があるものらしく、何となく安定したかな、という気持ちにさせられるものだった。いわゆるドーパミンとかそこらへんに作用するやつらしい。新しい処方は作用機序の異なる薬で、不安や緊張の改善に効果がある。具体的にはGABAに作用するらしい。

この薬が見事というか、クリティカルに効いて、日々の暮らしの中の息苦しさ、悲しさ、辛さがかなり改善された。心が文字通り軽くなって結構感動を覚えた。ただ、こうして一つ一つ問題を取り除いていった時に根底に横たわっているものに気付くのも事実。

結局のところ悲観的で特に最近は近い将来に対する不安の芽がぽこぽこ芽生えて来ているものを抑えきれていない感じがする。

それは大きなところで言えば自分という人間が今後形成していくであろう家族というものへの不安であったり、小さなものではいつあるかもわからない次の引っ越しのことを考えて家財の多さに憂鬱になったり、今まさにプレイしているゲームに今すぐにでも飽きてしまわないか、このゲームをしている時間は本当に有意義かという自問自答であったり粒度は様々だ。

以前、勧められて読んだ脳科学系の本にもあったが、結局は自分自身の気の持ちよう、というか気持ちの作り込み方でメンタリティの根底は改善されるらしい。

薬を飲みながらでもそこを少しずつ修復していけたら、日々の穏やかさはより近づいてくるのかもしれない。マジむずかしー。

あと睡眠薬も処方されたのだけどこれがまた効いてくれているおかげで、朝方目が覚める機会が減った。薬ってすげーなと思わされる日々。

 

 

さて、飲んでる薬が増えたゼみたいな話から始めてしまったけど、多分今日書き留めておいた方がいい感情がある

というのも、今日自分は入籍した。

紙を出すだけだよ、と以前会社の先輩に言われたが、まさしくその通りというか、本当に書類上の手続きがなされただけで、自分たちの心持ちや暮らしは何も変わらないなと思った。でもちょっと気が大きくなったのか中野ブロードウェイで大量に漫画を買った。

どうでもいいが、紙を出す行為は自分の中では結婚ではなく入籍だと思っている。結婚という言葉にはあの結婚式の華々しさがついて回るイメージがあり、結婚式をして初めて結婚した、と言えるような気がしている。

だから新婚旅行なる概念もあまりにまだピンと来てない。結婚式の後にするものだと思ってるから。だからその時が来たらすればいいと思っている。

本当に紙出しただけで暮らしは何にも変わらない。良いことだと思う。あ、でも一応結婚指輪は作りに行った。

 

なんやかんや、彼女とも5年の付き合いになる。お互いに対してサラッとしていると言うか、あまり男女性(ってなんだ?なんていうんだろう?初々しさとかそういうもの?)を感じない生活におけるパートナー、という認識が自分の中である。つまるところ同居する二人の性差による軋轢がほとんど生まれていない状態。SNSでパートナーは安定した人間を選べとか言われているけど、まさにその通りで、彼女の非常に安定した精神性にはかなり助けられている。ほぼ喧嘩をしたことがないくらいに、日々の暮らしは穏やかだ。お互いが家事から何からできるものを探して隙間を埋めるようにしてやっていく、そういう支え合いができているように思う。(が、実のところ自分はだらしない人間なので家事の多くを頼っているのは事実)

 

僕が飲み会でやたらと話したがる男女の関係性の例え話がある。長く続く二本の道を、それぞれの車を運転しながら並走し続けられるような関係であるべきだ、という主張だ。一台の車でどちらかがそのハンドルを握るような関係性は極論どちらがマウントを取るかの話になってしまい長続きしないと思っていて、お互いに一番の理解者は自分、二番目がパートナーか仲の良い友達か、くらいの距離感がちょうどいいんじゃないかと考える。そこをお互いに守ってこれた自負はあるように思い、こうして入籍に至る運びとなった。

まぁ今後も何が起きるかわからない人生、どうなるかは何にもわからないなと日々思ってばかりいるけど、今はとりあえずこうして2人で頑張っていこうと思ったりしたわけだった。これからもみんなよろしくね。いつもありがとう。

奪われた主人公であることについて

主人公でありたい。

 

僕はずっとそう思って生きてきた。もちろん、全ての人がその人の人生においての主人公であることに疑いを挟む余地はなく、それをベースに敷いた上での「主人公性」のある生き方を僕は求めて生きてきた、ように思う。

 

僕は小さい頃から漫画が大好きでかれこれ20年近く一気通貫した趣味として持ち続けている。そこに現れるたくさんのキャラクターはそれぞれに主人公性を持ってキラキラと輝いていて、僕は20代後半になってもそんな主人公たちに憧れている。

 

そんなキャラクターたちをキラキラとさせているのは大きく分けて「背景」と「イレギュラー」という二つの事柄だと思っている。味のある悪役には悪である背景があり、魅力的な主人公は思わぬイレギュラーによってその魅力をより輝かせる舞台へと引き摺り出される。

つまり、「背景」と「イレギュラー」。この二つが僕が主人公であるという自覚を維持したまま生活を楽しく送るために必要なものなのだと思っていた。

 

そのためにいろいろなことをしてきたと思う。高校に入って、これまでの自分を一度捨てて所謂「高校デビュー」をしたとき、柔道部を辞めてギター部に入ったとき、その時の友達と一緒に大学でフォークソング同好会の門戸を叩いたとき、サークルの同期と始めたいろいろな楽しいこと、大学の専攻の枠を飛び出てした就活、東京への移住、そして今に至るまで僕は様々な活動で僕自身の背景を(少なくとも僕から見て)魅力的なものにできるように努め、そのために邁進してきた。そんな日々はとても楽しく、そうして出会ったたくさんの人たちや機会の中から多くのイレギュラーが生まれ、僕の毎日に華を添えていた。

 

僕は常に今が一番楽しいのだ、という自覚を持って生きてこられていると思っていて、そう思えているのにはこうして積み上げてきた背景が今の生活を楽しくしてくれているからである、という自負もあった。

 

だが、ここ一年弱で圧倒的に奪われてしまったものがあるのもまた事実で。それが「イレギュラー」なのだと僕は思っている。イレギュラーとは、何か行動を起こした時に初めて生まれるもの。書を捨てて街に出よというわけではないが、街を歩き、電車に乗り、人に出会うことで起こる歓迎すべきイレギュラーが、日々の重要な刺激として僕を動かしていた。

コロナウイルスは僕からほとんど外出の機会を奪ってしまった。人によっては家から出なくて済むことを肯定的に捉える人もいて、東京の人の多さを思うとそう考える人がいるのも理解できる。それでも、僕にとっては週末のライブなんかの楽しみもそうだし、なによりも毎日の出勤というイレギュラーの獲得を奪われたことが、生活に大きな影を落としていることを実感している。

 

朝会社に行くために起きて、電車に乗り人と人の間で揺れ、駅から会社まで少し歩いて、会社に着いたら人に挨拶をして、仕事に疲れたら会社の中を散歩して同期と話したり、仕事で気になることがあればすぐ誰かに話を聞いたり、そして帰る時間になればたまに誘われて酒を飲む。たったこれだけの生活に如何に愛すべきイレギュラーが含まれていたか。それを思うだけで、今、自宅のデスクに座ってパソコンと向き合うだけの日々を続けている僕はどうしようもなく悲しくなってしまう。

 

イレギュラーを奪われた僕の生活はなんだかとても平坦で、それだけに自分について暗い考えを巡らせる時間も増えてしまったように思う。最近はそこから逃れるようになるべく週末は予定を入れて人と会うようにすることでバランスを取ろうとしているのだけど、それは自分の人生に潤いを取り戻すというよりは、無くなった潤いをかき集める程度の作業に過ぎない。

根本的に「出会う」機会が足りていない今の自分は、自分の根底にあった「主人公性」への希求を緩やかに失いつつある。それが殊更に恐ろしく思える。

 

目に見えないウイルス一つで人の生き方は大きく変わってしまった。イレギュラー無き人生の空白期間は、ゆくゆくの人生から「背景」を奪い、それが予想される今、僕はとても日々に辛さを感じてしまう。「さえなければ」などというのは念じるだけ無駄とは知っていても、未だに今年フジロックに行けていたら、サークルのOB会があれば、日々のライブを見られていれば、そして何よりも、毎日この家から抜け出せていればと考えてしまう。

 

この日々の中での主人公のあり方を僕は考えなければいけないのだけど、これまで読んできた漫画たちは部屋から出られない主人公の輝き方を残念ながら教えてくれない。これについては僕自身で考えて解を出さねばならない、とても難しい問題だ。

20201011_近況

9月末をもって、仕事でしばらく関わってた案件が終わった。

去年の12月くらいからなので実質10ヶ月くらいの案件で、僕にとっては初めて社外のクライアントと接する仕事だった。客先常駐になって、そこが22時退勤必須なために仕事が間に合わない時は朝7時とかに出社したり、初めて休日出勤をしたり、なにかと仕事の「仕事っぽさ」を体感する案件だった。

お客さんと何かを作っていく、というのはとても難しくて面白いことだなーとぼんやり思ったりもした。客先でも良くしてもらえたし、我々の印象もかなり良かったようなので仕事自体はやりがいを持ってやっていたと思う。

案件を去るタイミングで半年ぶりに客先に顔を出し、最後の挨拶、そしてなぜか記念撮影までするという柔らかさを目の当たりにして、日々僕の周りの人々が異口同音に語る、「弊社として担保すべきクオリティ」へのプライドがこうして信頼を生んでいるんだなーと感慨を深めたりした。

最後の挨拶でなんて言っていいか分からず、「リリースまで頑張ってください」っていうなんか上から目線っぽいコメントを残してしまったことだけいまだにちょっと恥ずかしい。いつでも思い出せる過去の恥シリーズに加わった一瞬な気がする。

 

そして、10月からは次の案件が入るまでの空白が少しあり、そこを見計らって9連休を作った。今日はそれを満喫した最後、9日目ということになる。

前回のブログでビルが欲しいみたいな話をしたのだけど、それがちょっと具体化してきて、最近は内見に行ったり、キャッシュフローの整理をしたりしている。みんな本業を持つ人間が住居以外の賃貸物件を抱えるためにはどう動けばいいのか、みたいなところはしっかり詰めて行かなきゃならないところである。形になったら面白いと思うので引き続き頑張っていきたい話。

 

9連休ずっと家は流石につま先から腐っていく気がしたので、ちょっと遠出の予定を立てた。でも今行きたいアミューズメント施設や土地も特になかったので、ド平日二日かけて、名古屋と大阪の友人を巡ることにした。

 

1日目の名古屋は、まず僕が(かつて年100杯ラーメンを食っていた僕が)どのラーメンよりも敬愛し崇拝する名店、ら・けいこのラーメンを食べることから始まった。

非常に平たく言えば二郎系なのだけど、うどんとみまごう太さとコシの麺、醤油がバキッと効いた醤油豚骨のスープの組み合わせは他のどこの店にもないもので、一説によるとらけいこの界隈がある故に名古屋には二郎が進出して来ないとかなんとか。うますぎて丁寧な写真をTwitterに上げたら30とかいいねされてちょっと戸惑った。

そのあとは今年になって移転し、ライブハウスとの併設営業に移管したstiffslackに向かった。らけいこ⇆stiffslackの連絡は、stiffslackが女子大通りにあった頃しょっちゅうしていたのを思い出す。新店舗では広く、明るくなった店内に中古も含めた今まで以上の品数のレコードやCD、カセットが並び、より一層ベニューとしての強さを増していたように思う。stiffslackは僕の音楽体験において外すことのできない、根幹を作り上げてくれたショップなので新天地で益々の発展を祈りたい。

続いては夕方の予定まで時間があったので、東山動物園へ。

雨の動物園に人なんているわけなくガラガラだったけど、僕の大好きなキリンが濡れそぼっているのを見られただけでも行った価値はあったと思う。僕がキリンの美しさに気づいたのは、動物園徒歩5分圏内に住んでいながら6年目のことで、あのだだっ広いエリアに背筋をすくっと伸ばし、背景の住宅街や青空とも相まった不思議な魅力を醸し出すそのキリンの凛々しさは、30分でも1時間でも目の前のベンチに腰掛けていられるほどだった。

あとは世界のメダカ館も行けて良かった。あんなマニアックな水族館は多分日本でもあまりなくて、水族館行く以上に熱帯魚店に行くのが好きな人には深く刺さる施設だと思う。

動物園を出る時は絶対に閉園のアナウンスと共に去るのがいい。あの哀愁はなかなか他で味わえるものじゃない。

次は大学時代からの馴染みのカフェ、drawingに行くつもりだったのだけど、まだ少し時間があったので博士で大学に残った友人を訪ねた。ちょうど博士に再入学した友人とも会えて、少し研究への懐かしさと憧れが生まれた。大学院生時代、あんなに辛い気持ちで向き合っていた研究をまたやりたいと思うのは、まさに時間の為せる業だなと思う。

drawingではかき氷を食べながら店長、亮平さんと近況を話した。梨と栗のあいがけ、さっぱりしてとても美味しかった。コロナで難しかった時期も無事乗り越えられたようで、安心する思いだ。このカフェは、先代、今の2代目店長のどちらも僕のいたサークルのOBであって、過去にcllctv.のインタビュー企画やサークルのアコースティックライブなど、色々なイベントを行った関わりの深い場所だった。作り手の工夫と努力によって、そういった温かい場所が守られて行っているのは、帰る場所が用意されているようで嬉しく思う。

夜は僕の学生時代のバイト先で、サークルの先輩から後輩まで入り乱れて酒を飲んだ。平日にも関わらず、半分くらい社会人にも関わらず、なんだかうまいこと歯車が噛み合って10人以上も人が集まり、とても楽しい会になった。店内でタバコが吸えなくなっていたり、年上年下問わず結婚話を聞いたり、山本の家の犬が死んでしまっていたり、変わるものはあったけど、サークルという枠で集まるといつでも話が尽きることがないのはとても嬉しいことだった。未だにサークルという繋がりを定期的に求めてしまうのはこういった波長の合い加減によるものなのだろう。

「社会に出た時これくらいの人間性の濃さ(平たく頭おかしいと言ってたけど)の集団が存在するのか」が来年社会に羽ばたく博士、山本の心配事だった。おそらくあのサークルにある程度のめり込んだ人間であれば、そのほとんどが首を横に振るのではないかと思う。それくらい、名大フォークという空間は気持ち悪い傷の舐め合いと内輪の盛り上がり、切磋琢磨で出来ていた。というのはあまりに卑下した言葉だけど、実際色々なコミュニティで若干浮いている人間やはみ出ている人間がなんか集まってなんか真剣にやってて上手いこと行っているサークルなので、あの居心地の良さをこれから先の人生に見出すのは結構大変なんじゃないかと思う。でも社会出ても楽しい人はいっぱいいるからそれなりに大丈夫だと思うよ。いざという時名大フォークの誰かと飲める距離感にいればなお安心。

夜は山本の家に泊まり、終電をなくした河田と3人で音楽を投げつけ合う会をした。音楽が好きな人間が2人以上集まると、「最近良かった音楽」から始まり、スピーカーを奪い合うように音楽を勧め合う時間になりがちなのだけど、毎度この時間は豊かだなと思う。とりあえずちゃんとlamb of god聴こうかなと思った。

 

朝に起きるつもりが起きたら昼前だった。二日目、金曜日は大阪へ向かう。この日の予定は、cllctv.でのインタビュー以来、企画に呼んだり日々Twitterで絡んだりとオンラインオフライン共に仲良くしているcolormalことイエナガと飲むことだった。逆に言えばこのためだけに大阪に行ったという話でもある。本当にやることなかったんだな。

僕は名古屋大阪間の移動は近鉄が好きで、バスよりは早く新幹線よりは遅いスピード感(他それに準じた価格設定)や、座席の高級感から感じる小旅行感がちょうどよく楽しい。特急ひのとりという特別便に乗って、まったりと大阪に着いたのが15時過ぎ。流石に夜まで時間があるので海遊館に向かった。

海遊館は小さい時に行った以来だったけど、環太平洋造山帯になぞらえた展示と、深さのある水槽を螺旋に降らせ、表情を変えさせながら何度も見せるという工夫が、この文字列から受け取れる印象以上に巧妙でとても楽しかった。時間が遅めだったので途中から夜向けの照明に切り替わったのだけど、薄暗くて没入感が増したので圧倒的に夜の方がおすすめ。

展示種数は多くないけど、海に潜っていくようなストーリー性のある展示はここにしかない強みだなと思った。近くにあったら定期的に行ってると思う。ただ関西人のカップルはやたら声がデカくて疲れるので、関西以外にあればもっと良かったなと思いました!!

夜は予定通りイエナガと合流し、彼らの練習があるというので、それを見学しにいくことになった。とは言ってもライブハウスを借りての練習なので、言うなれば(言うなれば、ね)僕一人のためにcolormalというバンドが2時間演奏してくれるのを見られるようなもので、なかなか贅沢だったなと思う。タバコも吸えるし酒も飲めるし、こんなライブハウス今時ないよね、ラッキー!いつかcolormalがめっちゃ売れたら自慢しようと思う。演奏もすごく良かったからほぼライブ見てるようなもんだったよ。

そのあとはイエナガ宅へ。彼の家には音楽以外の娯楽がほぼ無くて、音楽を作る人間はやっぱりそれ以外の娯楽から遠ざかるのかなと思った。「ゲームがあるとやっちゃうから置かない」と言ってる音楽家は僕の周りに複数人いるのでこれは割と信憑性がある話かもしれない。

晩酌用に作ってくれてた煮物や作り置きのおかずがとても美味しく、かなり歓待を受けた気持ちになった。そのおかずの味付けが完全に酒飲み用で、実際炊飯器すらない家だったので、「生活感あるのか無いのか分からんくて怖」と思った。緑茶パックとキンミヤで作る緑茶ハイもめちゃ体験として良かった。

ここでもやはりお互いの音楽の持ち玉をぶつけ合う会になった。教えてもらったSACOYANSめっちゃカッコよくて帰り道に聴いてた。収穫。あと大名曲『大きな怪獣』の弾き方を教えてもらったんだけど、コードが多かったのでイントロ以外忘れてしまった。部屋でタバコ吸える環境だったので、旅館にありがちなせり出したタバコ吸えるエリアに居る気持ちになった。

音楽投げ合戦は深夜まで続いた。

翌日、彼らはライブだったので会場近くまで着いて行ってそこで解散となった。本当はライブ見られたら良かったのだけど、台風で新幹線が運休になる可能性が残ってたので早めに帰ることにした。教えてもらった百薫香辛食堂のカレーを食べて帰った。スパイスカレーの街大阪の息吹を感じられた。とても深くて美味しかった。

新大阪東京間って思ったより長くて、寝ても寝ても着かなかったけど、なんとか夕方には家に着き、寝に寝て今日に至る。9連休も終わる。

 

人と会うことを求める気持ちがかなり高まっていたのがこのコロナ下での生活で、実際にそれを行動で発散できた良い休暇になったと思う。逆にこれくらい人に会いたいと思ってなければ大阪まで出向かなかったかもしれないので、環境というのは至って人に作用するものであるなと思った。

以上、ここ最近の記録。